あるとき、土佐勤王党(とさきんのうとう)の同志が当時流行していた長い刀を手に入れ、坂本龍馬(さかもとりょうま)に自慢 した。龍馬は「すでに大刀は無用の長物。非常のときはこれに限る」と言って、短刀を見せて笑った。これを聞いた同志は短い刀を新調し、披露した。すると龍馬は「刀より西洋の新しい武器の方が勝る」と言って、懐中から拳銃を取り出して見せた。これを聞いた同志は苦心して拳銃を手に入れ、披露した。すると龍馬は「これからは世界を知らなければならない」と言って、『万国公法(ばんこくこうほう)』(国際法)の和訳本を取り出して見せたという。
こんな坂本龍馬だが、その短い生涯に所持した日本刀は名刀ばかりだった。「源正雄(みなもとのまさお)」「陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)」「相州正宗(そうしゅうまさむね)」「備前長船(びぜんおさふね)」が、有名な四振りである。 中でも龍馬のいちばんのお気に入りは陸奥守吉行といわれている。これは、坂本家伝来のたいへん優れた日本刀だった。家督を継いだ兄・坂本権平(さかもとごんぺい)が管理していたのだが、「先祖のものを持って死に臨みたい」と兄に頼み、譲り受けたものである。 事実、龍馬はいつもこの吉行を持ち歩いていた。慶応(けいおう)三年 (1867) 、京都河原町の近江屋で暗殺されたときも、龍馬と共にあったとされ、この愛刀を手にしたまま絶命したという。